「自由」の暴走

確かに、全体主義社会主義に比べれば、「自由」ほど尊いものはないだろう。

だが、繰り返すが、「自由」と「放縦」「アナーキー」とは根本的に異なるはずである。

自由競争社会における「神の見えざる手による予定調和」を説いたアダム・スミスは、

プレーヤーが節度ある、自立した個人であることを前提としているのである。

日本社会、「自由」「個性」に名を借りて堕落していないか見直したいところです。